孤独死。この言葉に、以前から何となく違和感を感じていました。

孤独死の意味とは、一般的に「誰にも看取られずに一人で死んでいくこと」なのですが。『ひとり=孤独なの?』というのが私の違和感の正体のようです。

小学校の時に担任だった池田先生が言っていた「人は一人で生まれて一人で死んでいく」という言葉が印象に残っています。一人で死ぬのが孤独死なら、一人暮らしは孤独暮らしで、一人旅は孤独旅、なんでしょうか? その通り、と頷くタイプの人は、孤独暮らしを脱却すべく婚活に精を出し、孤独旅を避けるべくあまり気が合わない友人を誘ってでも連れ立って旅に出るのでしょう。冗談じゃない、一人暮らしほど自由気ままなものはないし、一人旅の人恋しさが旅情をかき立てられていいんだという変わり者は、やっぱりこの言葉に違和感を感じるのかもしれません。

食事が食べられず、緊急入院した一人の女性がいます。回診の度に

「こんなはずじゃなかった。なんで自分がこんな目に…。今死ぬのは困る…。」

とすごい不運に遭ったという風情で嘆いています。ベッドサイドで話を聞くと、どうやら彼女の言う不運とは、ここで人生が終わってしまいそうなことを指すようです。志なかばにして命を終えるのは不運と言えますが、この女性、おん年なんと90歳台半ば。何歳まで生きる想定だったのか看護師さんが聞いたところ、120歳だと教えてくれました。………。

この女性はなかなか際立った個性の持ち主で、入院前まで自宅で芸術活動に勤しんでおり、お部屋は作品で埋め尽くされているのだそう。最近は随筆にも着手する意欲を持ち、ケアマネージャーさんがデイサービスに誘っても

「自伝を書く時間がなくなるから…」

とお断りされてきたのだとか。枕元に置いてあるは『ルネサンスの女たち』という本。

複数回の結婚歴があり、最終の結婚でご主人を早くに亡くされたと言うので私が

「それはお寂しかったですね。」

と相槌を打つと

「いえそんなに。私は一人が好きですから。」

と即答されました。(亡き夫が少し気の毒です)身寄りがないお一人暮らしですが、寂しいとは感じなかったようです。ちなみに食事は、近所の方が届けてくれていました。

この方、臓器の機能低下はあるものの加齢性変化の側面が大きく、入院治療によって簡単に解決するものではありません。食事があまり食べられず、身動きが取れない状態であるこの方の帰り先を、どこにすればよいのか?

ご本人、福祉関係の方と話し合いを重ねましたが、私自身これが正解だという答えにたどり着けず、今でもモヤモヤとした気持ちを抱えています。本人は、入院当初家に帰りたいと言っていました。

経済的事情により施設入所のハードルが高かったこともあり「ご本人が家に帰りたいのだから帰る方向で考えてみてはダメでしょうか?」と言った私に対し、福祉関係のスタッフの方は、前向きに考えて下さりつつ慎重な態度でした。創作活動をしたいから家に帰りたいと言うけれど、食事はどうするのか?身動きがとれない状態で排泄はどうするのか? 入院前は親切なご近所さんが食事を持ってきてくれていたけれど、その方が訪問した時に亡くなっていたら申し訳ない…。ごもっともです。

今の状態は介護度で言うと要介護4か5。介護サービスはそれなりに入れられますが、それらをめいいっぱい使っても‘人の目が届かない時間’があることは避けられません。でも逆に、一人を愛するご本人からすれば24時間人の目が届く状態にあるのは、家にいながら居こごちが悪い状態、なのかもしれません。

孤独死、孤独死と言うけれど、病院でモニターが鳴り響き、亡くなったことに即座に気がつかれるのと、自宅で創作作品に囲まれながら亡くなり、数日後に介護スタッフに気がつかれるのは、どっちが孤独なんだろう?と考えてしまった午後。多くの人に惜しまれ、手を握られながら亡くなるのも素敵な人生ですが、一人でひっそりと逝くのも、それまた一つの人生。一つの価値観として尊重し、本人の自由を邪魔しない程度にバックアップできればいいな、と思います。

写真は訪問診療先のお宅でご馳走になった桜もち。このお宅に来ると私、いつもは入れないお茶などを入れてしまいます。(私の座る椅子がポットに一番近いから、ですが)

さくらもち